夜中の電話

昨日の夜中1:00ごろ電話が鳴った。
私は寝入りはなで起きることができなかった。
震災以降ものすごく疲れやすい。
(それはダンナさまも同じ。家族全員鼻血出してるし
被曝量かなりなんじゃないのか)

「何かあったのかな」と不安になったものの
そのまま眠ってしまい、気がついたら五時半だった。
携帯を確認すると義妹から着信!

すわ、義母の身になにか!!

急いで電話したところいま空港にいるという。
なんでも義母は電話のあったころに
自分で救急車を呼んで病院に行ったらしい。
うわーん。

薬をもらって家に帰った、というので
入院とかおおごとではないのだけれど
救急車を呼ぶというのは尋常ではない。

心配でやきもきしているんだけど
息子である旦那さまの反応はあっさりしていてイマイチ。
きなきなして義妹の連絡を待つも音沙汰がないため
昼にダンナ様からメールしてもらったら

全員昨日寝てないのでこれからみんなで寝ます

とだけ返信があり、
容体は?
救急車呼んだほどの症状ってなんだったの?
という不安を抱えたまま。

西にはいかない

震災後、ずいぶんいろんな掲示板を見た。
情報を得るためと、世論と自分の感覚とのズレを
補正するためでもあった。
テレビやラジオ、新聞は本当にアテにならない大本営発表ばかり。

で、阪神大震災のときと違うなあ
悲しいなあ
イヤだなあ
と思うことがある。
それは

西の人がいう「トンキンざまあ」に集約されている。

ひどい。
コンプレックスが優越感に変わったってことなのだろうか。
同情や我が身を心配する前に「ざまあみろ」と喜んでいる。
一部の人というには多すぎるし、たぶん、本心なんだな。
東京を中心として東と西は経済にも暮らしにも感覚にも
明確に分かれている日本だが、ここまで違和感を感じる発言は
珍しい。

阪神のときの東の気持ちだって全部は伝わりきれず
冷たい、もっと助けてと思った人もいるかもしれないが
こんなあざけるようなことはなかった。
いたとしても不謹慎すぎて目立つことはなかった。
ネットの垣根が低く暴力的になっているのを感じる。

「ざまあ」と思っている西の人に言いたい。
今回の被災地は南東北の太平洋沿岸である。
東京ではない。
東京へのひとでなしな暴言はいい加減にして
東北を気遣う言葉のひとつも見せたらどうだ。

ないとなったら

もちろん、震災以降は水道水飲んでません。
食べ物の買いだめも尽きてきましたので
慣れ親しんだブランドであっても涙の別れをつげて
北海道や青森、四国九州の食品をメインにしております。

給食は地産地消とか言い続け、検査をする気は全然ナイ!!
という千葉・茨城の食品を使っています。
牛乳は飲むな令を出しています。
チェルノブイリの小児甲状腺がんの80%は牛乳が原因と聞いたから。
でものどかわくから飲んじゃってるんだよね。
下水道は夏休み以降の復旧だとかで、
上水道もトイレも使えてないから。

帰るなりトイレに駆け込む娘の
膀胱炎が本気で心配。
仮設トイレは「無理」なんだそう。

ああ、衣食足りてこその躾が、どんどん破壊されていく。
生産者に感謝しつつ食べ物を大切にする気持ちは日本の美徳。
生産者の利害と拮抗する生活に変わってしまって本当につらい。

オージービーフやカナダ大豆の納豆を選んで買うなんて
くやしい、情けない、悲しい。



さて、ないとなったら調達の努力努力。

昨日、淡路の新たまねぎを10Kg
徳島のれんこん、にんじん、きゅうりを各2Kg
ついでに香川のキャベツをいっこ買ってみた。
キャベツは新キャベツ以外あんまり積極的に使わないのだが
ロールキャベツとか豚汁とかお好み焼きにはないと困る。
食べた中で一番キャベツがおいしかったのは北九州だったんだけど
手に入らないなー。痛みやすいのかな。
他の4種類は切らすと私のレパートリーの大半が死ぬ。
新じゃがいもはまだ北海道産が出回らないので見送り。
なんだか寒い春だけど、ケガジは大丈夫なんだろうか。

家庭菜園も考えたけれど、シロウトがプランターで作っても
1日分にもならんのではないだろうか。
葉っぱもの全滅by虫、とか
げっなぜこんなにまずいんだナス、とか
あああ海辺のベランダは雑草すら生えないぜ
といった封印の過去を考えるにつけ
努力の方向をとっくり検討しようと思うのだ〜。


関東はたいへん食材の豊富な場所だが
あんまり旨いものはない、というのが私の意見。
食べ物は北のほうが美味だが西のほうが品物が大きく見栄えが良い。
全国に分布する植物・畜養動物・魚は西に行けばいくほど大きく不味くなる。
(西にしかないものは当然西が旨いが)
狭い経験での個人的味覚だけれど、この感覚に従って暮らしているので
東電原発による汚染は心理的にクるものがあった。

こありー

ひとり娘9歳。
ほとんど人間扱いのマルチーズ、オス10歳。
子蟻ってやつです。

世の中いろいろ厳しくてもインフラは充実しているらしく
生活がかなり逼迫している人でもネットはしている。
なにかしらの端末は持っていて継続的にツールとして
使っているのだろう。

マジコマ・ホンコマなる言葉があるようで
ほほー、と思いつつのぞいてみた掲示板では

「こんな未来だとわかっていたら子供なんか作らなかったのに」
「こんなだからもちろん子梨です」
という発言が目立つ。
うちはまだそれほど困窮しているほうではないと思うものの
大変納得できる言葉である。

なにしろ子供はものすごいお金がかかる。
しかも手間どることこの上ない。莫大な時間と労力がいる。
わたしも一人でもくらくらしている有様だ。
自分では手間の削減方法を選ぶことはできない、
なぜなら社会に強要されるからだ。
選択子梨さんは危機管理能力が高いのかもしれない。

よく「産んじゃえばなんとかなるわよ」という女性が
いるそうだが、わたしのまわりの職業婦人は誰ひとりそんな
不正確なことは言わなかった。
だから私も言おうと思う、子供は本当に至高のぜいたく品であり
その点において議論の余地はほとんどないと。

お金さえあれば育つというものでもなく、
親の全精力を吸い取って子は生きる。
昭和までの事情とは明らかに違い、自分程度の人間に
育て上げるコストは4倍近く、体力は3倍近く必要だ。
(当社比)
そうまでしなければまともに育ちあがらなさそうだ
というこの明確な確信はどこから来るかというと
やっぱ
団塊ジュニアゆとり世代
いやでたまらない、
彼らの主張や意見が悪目立ちしていて
こいつらの下では年下がダメになるな
と思ってしまっているということなんだろうな。

社会に育ててもらえない子供はお金がかかって当然なのだ。

オムレツ

就職して一人暮らしするまで
肉を一切食べない父にあわせ、
食卓に並ぶたんぱく質は魚介類ばかりだった。
大学に入ったとき、そのあたりを矯正するべく
評判のいい料理教室を調べて即弟子入り。

京女の先生からはテーブルあしらいや季節のことに加え
栄養学の講座も受けることができた。
通っていた大学の家政科で教えていた方でもあるので
テキストはいまも大切にとってある。
今考えると非常にお得なクラスだったのだね。

子供ごころに楽しみだったのはオムレツ。
普通にこども味覚だった私は、めったに出会えないものの
あいびき肉が好きだった。
うん、たいていの子供はハンバーグが好きでしょう?
でもうちではハンバーグって出ないのよ。
だって父のメインがなくなるから。
で、ものすごい手間ひまかけて、イカをさばいて叩いて細かくして
片栗粉とか小麦粉と練って揚げた
イカメンチ」
がうちではハンバーグの位置にいた。

年に数度くらいは外食もしたけど、大抵はきちんとした割烹店
会席料理をいただくので、お子様ランチや洋食なんて
外では食べたことがなかった。

偏食なほうで、いつも叱られていたんだけど
あの頃のメニューは一切子供にこびていなかったので
食べられるものがなかったという理由を腹の底に残している。
老人用、老人病人用、大人用の三種類を毎日三度さんど
作っていた母のことは、いまなお尊敬するが
子育てとしてはあまり参考にしていないのも事実だ。

そんななか、時たま母が作ってくれる
「野菜のみじん切りとひき肉をコンソメ味に炒めたもの」が
とても好きだった。
冷ましたら、ちまちまとギョーザの皮につつんで焼く。
私は25歳超えるまで、ふつうの焼き餃子を食べたことがなく
作り方も知らず、これが餃子だと信じて疑わなかったものだ。

学校給食は小学校までだったので、そういう肉料理はいくつもある。
たとえばしゃぶしゃぶ。
入社前の顔合わせでふるまわれた、高級店での一人一つ鍋・食材が
どかんとおかれ、ガツンと高そうな肉を前に私は途方にくれた。
ダンナやほかの人が食べるのを真似て食べてはみたが、
平静な顔をつくろうのと慎重に行動しなければならないのと
これから入社する会社の人との会食という気づまりさで
何を話したか、味はどうだったか、なんにも覚えてない。

で、前述のひき肉いため。
これが残ると次の日オムレツになった。

母はわたしのお弁当に6年間毎日カニカマを入れ続け、
私をカニカマ大嫌いに仕立てたことを時々笑い話にしているが、
じつはプレーンオムレツも嫌いになりかけたのは秘密である。
母のプレーンオムレツは本式で、できたては旨いが
お弁当には最悪のしろものであった。
なにしろ中身がトロトロで卵液はもれる、においは出る。
卵液は弁当箱を通過しフロシキをも通り抜け、鞄がダメになった
こともあった。
自転車通学だったせいもあろうが・・・。

けれど、そんなオムレツに具が入ると、
卵液のしみたごはんもフロシキの染みも許せた。

母には文句を言うどころか、逆らったことすらない。
姉の反逆によって私の反抗期は全方位封じ込めにあったので
こんなことを文字にするのも気が引けるが
42歳にして親離れするのも悪くないだろう。


ひき肉いりオムレツ好きは娘にも順調に引き継がれたらしい。
続けざまにお弁当に入れたけれど、ぺろっと食べてきた。
空のお弁当箱を洗うとき、しあわせをしみじみと感じる。

二か月も

二か月もたつのに
じりじり悪くなっていく原発
実際の死病と似ている。

露悪的なことを言うと、寄付額が少なくなってきた。
初速はすさまじいものだったが、いまや経済をまわそうという
論調も影をひそめた。
飽きてきた、とか、風化してきた、という印象を
素直につぶやいている人もいるが、単純に警戒が強まっただけだと思う。
もちろん、クレクレなごくごく少数の被災者を垣間見て呆れた人も
果てしなき欠乏に疲れた人もいるだろう。

関東住まいの我々は、絶賛ゆでガエル大会をしているように
見えようが、どうすればいいのか見当がつかないために
そうせざるを得ない状況なだけであり、
決してゆだりたくはないのであるが
なにしろ決断に足る情報があいまいで少なすぎ、
生活を捨てる際に生じる不都合が大きすぎる。

関東から人々が散りはじめたら、それは不可逆性の変化である。
日本という国の経済活動があまりにも明確に破壊され、
地方には混沌をもたらし、おそらく飢え乾きさえ引き起こすだろう。
日本という国土は山と川とで埋め尽くされ、1/4に息も絶え絶えになった
人間が必死で暮らしているわけだが、それが1/8になるわけだ。
人はガンなどという悠長な病気だけでなく、
単なる不衛生、栄養不良でも簡単に死ぬ。
いま病をもっている私などまっさきに淘汰されるだろう。

しかしなあ、だからといって命を簡単にあきらめられないよ。
40歳以上なら感受性も乏しくなってるし
放射線による発がん率も下がる(というか他のリスクが上がる)し
30年後はいきてないでしょってそりゃあんた、ひどいよ。
子供がまだヒトケタの年齢で、親子で長々と病気して、
一番母親が手助けしてやりたいときに子や孫の世話はおろか
自立すらあやしい不健康な体になったあげく
高額医療費に泣きながら日々弱っていき、
死んだときには周りだけでなく本人もほっとしちゃうような
自分になっちゃう。
そんな未来…いやだ!!!!
私になにができるだろうか。