体をささげるということ

http://labaq.com/archives/51664543.html
事故死した男性の臓器で4人の命が救われた…。
感動的な記事であり、事実であればすばらしい。

ニックさんがしたことは「献体を表明した」ということだけど
それがここまで有効に使われ
そして身内や本人?からの感謝が届いたのならば、
「大・大・大成功事例」と言っていいと思う。

私自身としては、フクザツ…。
たいへん狭量であるかもしれないのだが
この記事には感動したものの、献体には消極的な意見のままだ。
もともと、臓器を移植するということに否定的なのだ。

津軽には「命乞食」(いのちほいど、と読む)という言葉がある。
天に与えられたからだと有限のいのちを全うするときに
じたばたあがく醜い人間、という意味。
これがわたしの美意識のなかにでーんと座っているために
「努力して身を慎んでもなってしまった病気は天命」
「ひとさまの臓器をいただいてまで生きたいと願う気持ちはほいど根性」
「死に臨んで見苦しい態度だけはすまい。恥ずかしい」
と強固に思ってしまっているのだな。

まあ、親として
子供さんが大変な病気です、臓器移植で今後の健康は保証されます、と
言われたらば、まず盛大にそのように生んだ自分を責め、
迷いもせずに臓器提供者を探しまくり、
自分が適合するなら自殺してもいい、とか思うのは容易に想像できるが
自分なら、
一生他人の部品のおかげで生きるのは僥倖ではなくて苦しみだ
と言って断ってしまう、と思う。

事故で亡くなった人の死を「都合よく利用したやつ」と
思われるのは…耐えられないな。
罪悪感でいずれ精神的に病みつくかもしれない。
そのようにモノゴコロついちゃっているので。

しかも、わたし自身の部品を身内以外にささげるのにも
これまた抵抗がある。
しんじゃってるんだからいいじゃん
という気持ちが、なんか、ないんだな…。
身体髪膚、これ親に享く。
じぶんの体を作りだしてくれた両親にはこれ以上ないくらい
感謝しており、決して粗末にすることのないよう
心がけてここまで来た。
そして身内の体を捧げる気持ちにもなれない。




そんなわたしが一番地雷に思うタイプは


ちゃっかりしたやつ


である。